2011年07月04日

スポーツのこれから

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VMXはほんとうに楽しめるイベントになっています。


VMXの会場にはレジェンド・ライダーと言って往年の名選手が会場を訪れてくれます。
それを全員が敬意と拍手を持って迎え、彼らは僕らと一緒に走ってくれたりするんです。

そこにはモトクロスという文化と伝統に対するリスペクトがあります。
それがイベントに深みを与えてくれます。



人類にとって、競争=勝った負けたということの面白さは永遠になくならない、と書きました。
一方、これからの競技はそれだけでは不十分だ、とも書きました。

僕はこれからの競技・イベントには下記のようなものが必要だと思います。


・参加者間の「協調」を演出できること
僕らはライバルである前に、同じスポーツを愛する仲間だ!

・余計なプレッシャーとは無縁のものにすること
(勝っても負けても別に得るものも失うものもありはしない)

・文化的な意義を与えること
そのスポーツの歴史や文化に対するリスペクトを表現する

・大会以外の時にも参加者・参加団体間のコミュニティーが成立すること
ふだんから時には一緒に練習をしたり、連絡を取り合ったり、パーティーをしたり
遠隔地のライバルとネット上でやりとりできたり、、、、

・勝敗は大きな価値観の一部にすぎないという認識を容認すること
見て来たように21世紀には勝敗の意義は唯一絶対なものから相対的なモノ(多くの価値のうちの一つ)になっていくんですから、
勝敗だけで終わらずそれ以外の大きな価値観を共有して勝敗はそのひとつのスパイスに過ぎないことをみんなが理解していること。



そしてこのようなこと全てを通して、綿密にイベントを練り上げる事で

・競技の面白さ・愉しさをうまく引き出すこと

どうでしょう。いままでの話全体から、ほんとうに面白いスポーツイベントの姿をなんとなく思い浮かべてもらえるでしょうか。


僕は昨年全日本水上スキー選手権に参加しました。
その場で、永年のライバル立教大学OBのHT選手と、即席でライバル対決を演出しました。
僕はトリック競技だけに参加していましたが、たまたま全日本の日程の都合で最後の最後がトリック種目でした。

HT選手は全日本総合のタイトルもとった日本を代表するかつての名選手です。
僕はぼくなりに一所懸命に練習して宙返りのトリックを覚えて全力で彼に一矢を報いるつもりでした。

HT選手は僕の前に滑って、転倒することなく全てのトリックを演じてドックに戻って来ていました。素晴らしい!

僕はスタートするボートに乗って水面の側からHT選手に向かって、(つまりは会場全体に聞こえるように計算をして)
「我が終生のライバル・HT!今日こそは、今日こそはお前を倒す!!」と声の限りに叫んでみました。

大会のMCのかたにも協力してもらって盛り上げてもらったので、会場はおおいに盛り上がったそうです。(^o^)

もちろん僕はそのあと全力で滑ってフリップも決めたんですけど、その結果が勝ちでも負けでもそんなことはどうでもいい、と思っていました。
大事なことは大昔一緒に真剣に戦った彼と僕が、30年もの月日を経ていままた全力で水上スキーを楽しむことができている、というそのことです。

僕自身は真剣な競技スポーツである水上スキーの場でも、そんなふうにして真剣に滑りながらも心の底から水上スキーを楽しむことができました。
ほんとうにあんなに愉しかったことはありません。会場からは笑いもとれていたのではないかと思います。(^o^) 
自慢話のようですいませんが、いまだに体をはって笑いをとっているという点だけは褒めてやってください。(^o^)


上の項目ひとつひとつについて例をあげて説明できるといいんですが、さすがに時間がとれません。
みなさん自身で考えていただけるといいと思います。

世の中のスポーツ競技・イベントにも数多くの種類があるので、その立ち位置もそれぞれです。
純粋な競技一色のものもあれば、競技は集まるための口実に過ぎないようなものまで。
20世紀的な競技色の強いものから、21世紀的なイベント色の強いものまで。

ただ、それぞれのスポーツがこれからの時代にも発展して行く事を望むとすれば、
時代が何をスポーツに求めているか、それを理解し念頭において企画をしていくほうが
やみくもに過去の経験だけに規範を求めて突き進むよりは、時代に受け入れられ易い事は確かだろうと思います。


この一連の文の書き出しで、僕の言う事はときどき理想論扱いされてしまうことがある、ということを書きました。
おそらく、自分のやってるスポーツのことを考える時にいちいち時代認識から考えるような僕の方法は
大げさすぎるしめんどくさいんでしょうね。

いや、僕にもその気持ちはわかるような気がします。僕も最初はそうでした。
でも、長くスポーツの発展の可能性について考えているうちに、どうしてもこれは避けて通れないと思ったんです。
そして考え続けているうちに述べたような考えにたどり着きました。

これからスポーツやイベントの発展について考える人、そしてスポーツに本気で参加される人が、
もう一度最初から考えなくても済むとしたらblogの書込みとしては異様に長過ぎるこの一連の拙文も
書いた甲斐があったかな、と思います。(^o^)


おつきあいいただきありがとうございました!


posted by sotaro at 10:06| 埼玉 ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | 僕がこの10年考え続けている事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

新しい時代のスポーツ

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1999~2001、3年続けてウェイクボードのワールドに出場しました。
結果はベテランズクラス2位、2位、3位。
思えば偶然ですけど、ちょうど20世紀から21世紀にかけてだったんですね。(写真は去年のものです。)

初めて世界選手権に出ることになって(まあ若い選手の世話がかりのようなものだったかもしれません。)
若い選手達と一緒に現地で前日練習なんかにも参加しました。

ところが、明日が世界選手権だっていうのに、若い選手達はぜんぜん関係のないニュートリックにトライしたりして
大盛り上がりです。これが僕にはショックでした。彼らがいくら口では「勝ちにいくなんてカッコ悪い」と言ってても、
いざ前日ともなれば大会に備えて一度くらいルーティーンをおさらいしておくのだろうと思っていたんです。

彼らにしてみれば、せっかく本場フロリダまで来て最高の環境でウェイクボードができるのだから、この瞬間を楽しまなければ意味が無いと思っていたのに違いありません。そこで存分に楽しんで、それで気持ちが盛り上がって本番を迎えればそれでいい、ということなんでしょう。

でも、実際には競技で勝つにはやっぱり本番を想定して練習した方が得なんです。僕は水上スキーでそういうノウハウを知っていたので、いつも大会ではおおむね実力を発揮することができて、おかげでたいした実力でもないのに割と表彰台を逃すことなくずいぶん得をしていたと思います。
僕のやりかたの方が無駄はなかったと思います。だた、それは「競技で勝つ」という価値基準で考えれば、なんですね。

ようするにウェイクボーダーにとっては心の底からウェイクボードを楽しむことの方が、競技で勝つなどということより価値が高い、ということなんです。ここに新しい時代のスポーツの特徴があるように思います。エクストリームスポーツ、X-sports、横ノリ系、などと呼ばれたりしますね。オリンピックではなくてX-GAMESにあるような競技です。

僕はこの「横ノリ」という言い方が新しいスポーツの雰囲気をよく表しているように感じています。スケートボード、ウェイクボード、スノーボード、旧いけれどサーフィンもそうですね。どれも本来的にはタイムや得点のような数字で競うスポーツではありません。そしてスタンスがサイドウェイなんです。つまりスキーや水上スキーだと進行方向にまっすぐ向いて乗ります。いかにも速さを競うかんじです。一方、横ノリ系では進行方向に対して横または斜めに向いてボードに乗ります。速さというよりはバランスをとっている感じがしませんか?

つまり、彼らは板に乗る最初っから「斜に構えている」んです。ははは(^o^)

この楽しむことを第一義に考える姿勢、これが21世紀のスポーツの在り方として非常に魅力的に僕には思えます。スポーツをする気持ちのいい環境で仲間とともに最高の時間を共有すること。これこそが新しいスポーツにとって一番大事な意義なんです。それはウェイクボードのように水の上かもしれないし、ビンテージモトクロスのようにホコリだらけの土の上かもしれません。

このビンテージモトクロスも僕にはとても興味深いイベントに思えました。ヨコ乗りというわけではないんですが、そこではみんな旧いオートバイを持ち寄って(速いはずがありません)それを惜しげも無くドロの上で走らせて、なんとも愉しそうに「ミーティング」をしています。一応表彰のまねごとはしますが、賞品は上位の人には何も出ず、面白いバイクで走ってた人やがんばってた女のコなんかに豪華賞品が出されるんです。それも主催者の主観で。
このイベントで目を三角にして勝ちに行ったとしたらそれこそKYだってことです。

今年僕はレジェンド・オブ・クラシックというこれも旧いオートバイのロードレースに出場しようと企んでいるんですが、これもあまり勝敗を重んじないもののようで、HPの「LOCとは」という所を見ると「もちろんLOCはヒストリックレースにおける競技性を否定するわけでは有りません。」なんて書いてあります。しかもその部分だけアンダーラインつきで。レースですよね?LOCってレースなんですよね?!(^o^)
参照してください。「LOCとは」
http://www.britishbeat.co.jp/LOC.html

どうでしょう。感性のするどい人たちはとっくに古くさい勝った負けただけにこだわるような競技スポーツは卒業しつつあるのかもしれませんよ。
そしてそれは、昨日までに延々とみてきたように、時代の変化に伴う必然的な流れである可能性が高いんです。

どうします?ガチガチの競技志向のスポーツマン達。(^o^)



ただ、僕は旧来の「競技スポーツ」には新しい時代には存在意義が無いとか、もう競技スポーツはおしまいだ、などと言うつもりはこれっぽっちもないんです。競技スポーツにはまちがいなく素晴らしい存在意義が今後ともあります。なぜか。

#それは「競技」が面白いから、愉しいから、です。
(逆に言うと度を超して、愉しくない競技はもうだめってことにもつながります)

例えばジャンケンだって本気でやったら面白いですよね。100万円かけて10回戦くらいで本気でジャンケンしたらめっちゃおもしろいだろうと思いますよ。勝った負けたは本質的には「面白い」んです。
上のような新しいスポーツも多くの人が集まってなにかやろうと言うとき、たいがい競技会の形式をとります。そうせざるを得ないんですね。ただ、みんなで集まって何かやりましょうと言っても、なにをやっていいかわからない。とりあえず競技会をやろう、と言えばみんなすぐに何をやるのかわかるし、やりかたもだいたい決まってくるし、スポンサーだってつきやすいと思いませんか?

だって、みんなで集まってだらだら過ごしたいんですけど、スポンサーになってくださいって言っても、、、、ねえ。(^o^)
でも、競技はそういうイベント成立のための便宜に過ぎません。

競技性=「勝った負けた」が面白い、というのはおそらく生物である人間の本能に根ざしたことで、これは未来永劫変えようがないでしょう。
ただ、その勝ち負けのおもしろさだけが全て、というのではこれからは不十分なんです。水の上で宙返りができたって、そんなことに何の意味があるのか。ありません。もともと100mを誰より速く走ったって、そんなことなんの役にも立ちません。誰より高く棒高飛びしたってなんになるでしょう。

20世紀にはなにか一定の条件のもとで勝利すること、それ自体に時代が意味を与えていました。競って勝って白黒つける、そういうやりかたで何事も雌雄を決しようという時代の中ではどんな勝敗にも意味があったんです。
でも、時代が変わってしまいました。勝った負けたは依然として面白いけど、そこに意味はなくなってしまったんです!



どうでしょう、ここまでで一応論旨は尽くしたことになるんですが、いまひとつ競技スポーツの信奉者のかたには納得がいかないでしょうねえ。

明日、またうまく補足ができそうだったら、これから「競技スポーツ」がどうなっていけばよさそうなのか、書いてみたいと思います。




posted by sotaro at 09:47| 埼玉 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 僕がこの10年考え続けている事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月02日

競争の意味

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真剣に勝ち負けにこだわる水上スキーヤーから見ると、なんだか遊んでるみたいなウェイクボード。

20世紀と21世紀では、人類が物事に対処する方法がまるっきりちがっている。昨日そういうことを書きました。
以前は全力で競争して白黒つければいい。そう思っていたのに、最近ではいや人にはそれぞれ個性があって得意なことも不得意なこともある。
それぞれの個性やスタイルをそのままに認めて、おたがいに助け合って行くほうがいいんだっていうことになってきました。

例えば脚が速いのも遅いのもそれぞれひとつの個性であって、別にどっちが優れているというわけでもないじゃないかって考える訳です。
それじゃあ、よーいどん!って競争することなんか、なんの意味もなくなってしまいます。

ではいったいどうしてそんなふうに人類は変わってしまったんでしょう。

その前に、じゃあ、いったい「競争」っていうもののそもそもの意味はなんだったのか、ということを考えてみたいと思います。
スパームコンペティションってありますよね。精子の競争。一番速く卵子に到達した精子だけが勝利して、卵子に飛び込むことができて人間として誕生することができるっていうあれです。僕らは生まれる前からそうやって競争を勝ち抜いて生まれて来たんです。
これが生物の競争の根源的な意味を表しているように思います。

「ほらみろ、人類に競争は不可欠じゃないか。」もともと20世紀人である僕なんか、ついそう言いたくもなります。

そういう元気な優れたものを持ったものだけが選ばれて生き残って行くというのは、「種の保存」のためにどうしても必要なことでした。
脚が遅くて逃げ遅れれば、ライオンに食べられてしまう。
あらゆる生物がそういう競争の結果として生き残って来たと考えていいんでしょう。

つまり「競争」というのは人類という生物の「種の保存」のためにまちがいなく必要なことだったんです、ーーーーーー#20世紀までは!

ところが、昨日までもみてきたように人類は20世紀に異常繁殖して、地球上では最強の種になってしまいました。
それもあまりにも圧倒的に勢いが強すぎて、他の種を滅ぼすつもりなんかないのに、地球上の多くの生き物が人間の為に絶滅の危機に瀕するほど巨大化してしまいました。

今この21世紀に人類の「種の保存」を脅かすものがあるとしたら、なんでしょうか。
もう僕らはライオンにも熊にもまけません。(^o^)

津波はたいへんなことでしたし、被災者のかたには心からお見舞い申し上げますが、あんなに千年に一度の最強の自然災害がきても人類は滅びるどころか、日本一国でさえ今年一年も経済はプラス成長を続けるそうじゃないですか。
まして、日本人は助け合って生きるという素晴らしい新しい価値観を身につけそうだし、世界もまたそれをサポートしてくれています。

鳥インフルエンザが人類にも及んでパンデミックになって大変なことに、、、、なりそうもないですよね。僕ら人類はそれが発生する前からその予測ができて対処方法も、まあある程度は考えられているようです。

AIDSはどうでしょう。恐ろしいけど、まあそれでもなんとか抑え込んでいませんか?

ちょっと方向をかえて第3次世界大戦とか、、、。 物凄いテロがあって、それに怒って世界中が戦争を始める。まあ、ないことはないかもしれませんが、あまり現実的ではないような気がします。特に人類がだいぶ賢くなった21世紀には。

地球温暖化がどうにも激しくなって抑えられなくなってしまう。まあ、温暖化はするし困ったことではあるかもしれませんが、人類が滅びるほど極端になる前になんとかしましょう。だってもう世界がそれに気づいて対策会議やってるんですからね。

あとは映画みたいに、恐竜を滅ぼしたような彗星が地球に激突する。これはもし突然ほんとに来たら避けられないかもしれません。でも、これ、心配してもしょうがないと思いません?
あとは宇宙人の襲来とか、、。ははは(^o^)

僕には今すぐ人類の「種の保存」を脅かすようなことがどうも思いつきません。多くの人もそうなのではないでしょうか。どんなに人を心配させて煽り立ててそれで商売している大新聞やテレビなどのマスコミが大騒ぎしてみせても、少し目の利く人はもうそんなものカンタンには信じなくなっています。

さらに、上であげたような問題の多くのものが実は人間自身の行動の結果によるものです。例えば地球温暖化は人間が出すCO2が原因だということです。だとすればCO2の発生を急に減らすのは難しいとしても、それがほんとうに大変な問題なら、人類自身が行動を改めればいいだけのことですよね。

戦争だってやりたくなければやらなければいい。人類自身の選択の問題になっているんです。

これが最大のポイントだと思います。
つまり、既に人類の「種の保存」を外から脅かすものはなくなってしまった。人類を脅かすものがあるとすれば、それは他ならぬ人類自身だ。だとすれば、もう人類はこれ以上「競争」して切磋琢磨して強くなる必要なんかひとつもない。むしろ人類が強すぎることこそが問題なのだ。だったら、おたがいにペースダウンして、助け合うことさえ覚えれば、人類はもう安泰なんだ!

ほんとうにそうなのかどうか、それは誰にもわかりません。でも、人々が「競争」に飽きて「協調」にむかっていることは間違いないように僕には思えます。

さあ、そういう世界の中で競争のひとつのカタチとして20世紀に大発展した競技スポーツはこれからどんな役割を担って行けばいいのでしょうか。

すいません、またまた長くなっちゃったので、また明日に伸ばさせていただきたいと思います。
雑誌と違って原稿の締切がないblogは自由でいいですねー。わはは。(^o^)

posted by sotaro at 07:18| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 僕がこの10年考え続けている事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

21世紀

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「海ってほんとうに、限りなく大きいのね、、、、、。」
海をみつめて彼女がそうつぶやいたとき。

「ピッピピ〜〜!そこのあなた、間違っていますよ!」
そういう風に注意する人っていますかね。(^o^)

いませんよねー。実際人間の素朴な感覚としては、海は限りなく大きいし、地球も捕らえどころがないほど大きいと思うんです。

でも、一方では地球の大きさは外周が4万キロくらいだって僕らは知ってるし、当然海の大きさにも限りはある、っていうことも知ってはいますよね。




昨日振り返ったように、20世紀の前半必死で軍事的に競争していた人類はまだ地球の大きさを知ってはいたかもしれないけど、実感はしていなかったんだろうとおもうんです。だから、際限のない拡大のための競争に命がけで取組んだんですね。

そして、実際あのように爆発的に人口を増やした。日本も当時「産めよ増やせよ!」って言ってたんですよね。すごい標語だな(^o^)。

ところがいま21世紀を生きている我々は日々、地球の大きさにも資源にも限りがある、っていう問題を突きつけられながら、
(今日だって「暑いけど節電しなくちゃ」なんて思いながら)生きてるわけですよね。

もう征服すべきフロンティアなんてどこにもない、ということを痛いほど知っているのが21世紀の人類なんでしょう。
(まあ、月とか火星っていうのは22世紀にとっておくとして。)

ここに人々の意識の大きな差があるんだろうと思うんです。

21世紀になってまだ10年ですが、人類は大きな課題にいくつかぶつかっています。
ところが、その解決方法が20世紀と大違いだって言う事にみなさんは気づいておられるでしょうか。

ほんのいくつか例を挙げると、記憶に新しいリーマンショック。
あのあと世界の首脳が集まって相談して、共同してどこの政府もえらい大判振る舞いをして、なんとか大不況をかろうじて防いでいます。
もちろんまだまだ問題は多いにしても。

リーマンショックの当初、これは100年に一度の大恐慌が来るっていうんで、大騒ぎだったですよね。
それを各国が「協調」してなんとか手をうったわけです。これすごいでしょ。

100年前はこうはいかなかった。どうやって解決したかっていうと、、、戦争したんですねー。
こうなったのはオマエんとこが悪いんだって相手のせいにしてねえ。おとなげないですねー、百年前の人類。

まあ、人類も20世紀に高い代価を払って、学習したんですねー。


もうひとつの大きな例が「地球温暖化」ですよ。
これなんか、どうもひとつ異論百出でほんとうにCO2が悪いのか?ほんとうに温暖化してるのか?なんていろんな可能性もないわけではないのに、でもこりゃやっぱり地球全体の問題なんだからさ、みんなで話し合って解決しようよ、なんていって世界各国の首脳が集まって会議なんかやってるんですよ?!

すごいとおもいません?!
そりゃ、利害も対立するし簡単に解決するわけはないですけど、でもとにかく「協調」することで解決しようとしてるんだから。

あのアメリカとあのロシア。第3次大戦はいつやるんだ?と思ってたライバル同士。もちろんヨーロッパ各国だっているし、そこに中国!も。
インドや南米やアフリカも参加して途上国の意見だってちゃんと聞いて、、、もちろん日本なんか京都で議長やら洞爺湖でサミットなんかやっちゃって大活躍ですよ。


3/11の大震災のあと、世界各国から義捐金や応援のメッセージが日本に寄せられました。
僕、あれに弱いんですよねー、なんか涙が出て来ちゃう。
みんなで助け合って生きていこう。
そこに偽善の匂いをかぎつける人もいるかもしれませんけど、でもやっぱり今の人類は、かなり本気でそうおもってるんじゃないでしょうか。

とにかく隣国を兵器でやっつければ問題が解決するって考えてる人は、そうとう少数派ではないでしょうかねー。


つまり僕の21世紀に対するいまのところの見通しとしては21世紀は「協調の世紀」になりそうだなー、ということなんです。

20世紀が「競争の世紀」それも歴史上類をみない「大競争の時代」だったのに対して、21世紀は「協調の世紀」になる!
というのが僕の意見なんです。

そうなると、、、、スポーツは。

いよいよ、僕の大げさな話も佳境に入ります。(^o^)
なんでいま人類は協調なんてしたがるのか。

それは問題になるのが自分たちの振る舞いしかないんだ、ってことに人類が気づいたからだ
っていうお話は、また次回。


お愉しみに。(^^;;;
posted by sotaro at 10:19| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 僕がこの10年考え続けている事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月30日

20世紀

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まずは20世紀がどんな時代だったのか、というお話です。

まあ、僕は学校でも歴史とかいつも赤点ぎりぎりでしたから、あんまり真に受けないでくださいね。(^^;;;

人類が100万年くらい前に誕生して、そこから99万年くらいは有史以前ということでほとんど変化のない暮らしをしていたんだろうと思います。そのあと、言語を獲得して文字を覚えて歴史がはじまってそこから劇的な変化がはじまるんですよね。

そして、ついに産業革命が起って、石炭の時代がちょっとあって、いよいよ石油と機械の文明がはじまるわけです。
ガソリンエンジンの自動車が発明されたのが1885年?オートバイもモーターボートも同じ年です。飛行機が1903年ですね。

今から百年前にはまだフツーの人は自動車も持ってないし、家には電気もなかったんですね。驚きです。だって日本には百年生きてるかたがたくさんいらっしゃるでしょ?その人たちが生まれたときと今とでは世界がとんでもなく変わっちゃってるんです。僕だってもう50年以上生きてますが、この間に人類が経験した変化というのは、ほんとうにもうめっちゃくちゃな変化(あえて進化とか進歩とは呼びません)なんですよね。あらためて考えてみると驚きます。

そしてその中でも日本が戦後に経験した高度成長という変化は世界の歴史のどこにもあり得ないような変化なわけです。
だからある意味、20世紀の後半日本に生まれた僕たち(これ読んでくれてる人は全員そうですよね?)は世界の歴史の中でもあり得ないほど特殊な時代を生きて来たんです。そして、これほどの変化は今後とも(たぶん数百年単位で)もう起らないようなものなんだろうとおもうんです。

そういう意味では今後のことを考えたりするとき、あまり僕らの経験をフツーのこと当然のこととして基準に採用するのは危険だと思うんです。あまりにも偏った経験なんですね、僕らの経験は。僕らの常識は世界の歴史の非常識なんです。人間がこんなふうに変化(進化?)するのを当然のことだと思って来たぼくらは異常なんです。でも、生まれてからずーっとそういう経験しかしてないから、どうしたって今の日本なんて停滞していてどうしようもないように思えちゃうのはしょうがないですよね。

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ひとつだけ例を挙げると上のグラフを見てください。歴史が始まっても世界の人口はほとんど増えていなかったんですねー。
中世にはほとんど生産とか経済って伸びてないんですよね。ルネッサンス以降少し人間が自然科学的になってきて、人口も増え始めます。

ところが産業革命以降にはめちゃくちゃに人口が増えたことがわかります。石油を掘って何億年かかかって地球にたまったエネルギーを使い放題に使ってそれを機械によって動力に変えて食料を増産することで、こんなにたくさんの人口を養えるようになったというわけです。

この世界人口、どこまでも増えて行くのかというとどうやら100億人あたりで止まりそうだと思われているみたいですね、今は。

なんでこんな歴史の話しなんか僕がしてるのか、自分でもワケわかんなくなりそうですが、えーっとそうか。とにかく20世紀が、人類の歴史の中で20世紀だけが、とんでもない変化の時代だったっていう話しなんです。

で、20世紀に人類が何をやったかっていうと、石油の取り合いで2回の世界大戦をやったんですね。その頃人々が何を思っていたかって言うと、
この新しい資源「石油」を誰より先にたくさん獲得して、それで鉄を溶かして兵器を造って相手をやっつければ、自分たちが一人勝ちできる可能性がある!っていうことだと思うんです。

今から見るとずいぶん乱暴な考えですよね。でも、結局みんなそう思ってたんですよ、本気で。あるいは相手がそうやって攻めてくるんだから、好むと好まざるとに関わらずこちらもがんばって競争するよりないっていうことですね。黒船を経験した日本人は骨身に滲みてそう思っていたんでしょう。
思えば日本もずいぶんがんばって、戦艦大和をつくってゼロ戦造って戦ってみたんですよね。戦争には負けたけど、くじけない日本人は今度は経済で競争を挑みました。

僕なんかも子供の頃はテレビ番組なんかで「悪の組織が世界征服を企んでいる」なんて言うと、いまよりはるかにリアリティーがあったんですよ。今、「世界征服」なんてギャグでしかないですよね。
外国に出かけるのもおっくうな今の若い人からみたら、世界なんて全然欲しくないですよね、たぶん。

それで、その戦争というのが人間がやる「競争」の究極のかたちだっていうことです。イメージが悪すぎますかね。
でも、20世紀、世界中が必死で競争したんです。
またすごく雑な言い方で怒られそうですが、競技スポーツっていうのは「代理戦争」というか、ルールがあって安全で健全な「戦争ごっこ」のようなものだっていうことなんです。サッカーとかアメリカンフットボールなんかだとすぐ想像できますよね。

ですから、20世紀のような「大競争の時代」には競技スポーツがもてはやされるのは当然だったんですね。勝てばすべてを得られる。そういうことを誰もがリアリティーを持って信じることができた。

オリンピックというのが世界中で大人気になったのも20世紀ですよね。それに類するワールドカップやら世界選手権なんていうのもたくさんできました。昭和39年(1964)の東京オリンピックでの国を挙げての熱狂なんていうのは今では考えられないほどのものでした。今また東京にオリンピックを呼ぼうって言っても、まあなんだかたいして盛り上がらないですよね。それにも理由があるんでしょうね。

ただ、その次の日本のビッグイベント「大阪万博」(1970)の時には既にすこし景色がかわってきます。万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったんです。その頃日本はまだ高度成長のただ中でしたが、あまりの急激な発展のために「公害」があちこちで発生して、東京の空はスモッグでグレーだし、川はどぶ川みたいだし、こりゃちょっと考えながらすすめないとまずいのかもしれないぞってことに既になってたんです。

この頃人類は初めて自分たちの力が自然とか地球環境に対して巨大になりすぎてきたことに気づいたんですね。それまで人類にとって自然はとても太刀打ちできない巨大な畏怖の対象で、地震や台風や火山の噴火は甚大な被害をだしたし、病気だってまだまだ怖かった。そういう人智を超えた自然に対して人類は無力で神に祈ることしかできないと思っていたんです。
自動車を発明したベンツだってまさか自分たちの造るクルマがあまりにも世界中に増えすぎて大気を汚してしまうことなんて、まったく想像することすらできなかっただろうと思います。

ところが、人口が爆発的に増えて、人類全体の影響力の方が自然や地球の大きさを上回るほどになってしまった。
このことが際限のない拡大を目指した「競争」の限界を僕らに感じさせるようになったんです。ただ、大多数の人々がそういう資源の有限感などをリアルに感じ始めるのはやはり21世紀になってから、のようです。

まあ、ほんとに雑な話しの運びで申し訳ないんですが、とにかく20世紀というのが人類史上まれに見る「大競争の時代」であって、その時代の中にあって「競争」のひとつのカタチとしての競技スポーツもたいへんな発展を遂げたんだっていうあたりをなんとなく感じていただけたら、と思うんですが、いかがでしょうか。

20世紀には、競技スポーツは人類のありかたとうまく呼応していて、人の在り方の表現としてもまたまことに適切であった。
だから、優れたスポーツ選手は格好よく見えたし、その人が莫大な富を得ても当然のように思えたのだろうと思います。

そしてもちろん21世紀はそれとはちがった時代になっていくという話しにつながっていくのは、ご想像の通りです。
それに伴って、競技の意味も変わって行かざるを得ない。
僕が水上スキーに熱中していた1970年代後半のようには、人々は単純に競技スポーツに夢中にはなれないっていうことです。

既に十分長過ぎて、ついてきてない方も多いと思いますが、だいじょぶですか?わはは(^o^)
この続きはまた明日(以降)ということで、よろしくお願い致します。m(__)m
posted by sotaro at 01:53| 埼玉 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 僕がこの10年考え続けている事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月29日

僕がこの10年来考え続けていること


僕はなにかを真剣に話しあっていると、「井上さんの言うことは理想論だ」という反論に出会うことがあります。実は僕はそれを聞くと内心嬉しくなってしまいます。(^o^)
なんでときおりそんなことが起るのでしょう。へんですよね。
そこで、僕がよく「理想論」と言われてしまうようなことについてちょっと書いてみたくなりました。主に時代認識といったことです
(この話しに関連することはこのblogでは以前から書いて来ていますが、もう一度まとめてみたいと思います。)


若いころ僕は水上スキーという真剣な競技スポーツに没頭していました。(今もまだ少しやっています。)その後、ウェイクボードという横乗りスポーツに出会いました。このスポーツにも競技の側面もありますが、深くつきあってみると競技以外に非常に豊かな側面を持っていることに否応無く気づかされてしまいました。
僕の考えだと、競技スポーツというのは20世紀的なもの。横乗りのX-Sportsは21世紀的なもののように見えます。
オートバイの世界で言うと真剣なロードレースは20世紀的。ゆるーいVMXやイベントレースなどは実に21世紀的だ、ということになります。

なにをもってそのような区別をするのか、どうしてそのように言えるのか、そんなことをお話したいんです。そのためには20世紀がどんな世紀だったのかということを整理し、そして始まってやっと11年が経過した21世紀がどんな世紀になりそうなのかということを予測し、概観しなくてはなりません。
その過程で「競争の価値」というようなことを考えることになると思います。

なぜそんな大げさな話しをしてまでスポーツを分類したりする必要があるのかというと、それはつまりスポーツなどを単に競技として追求するだけでは、これからの時代に評価されないということになってしまう可能性があり、せっかく一所懸命に競技に献身してもあまり価値ある成果がなく、特に既に21世紀的感性を身につけて育っている若い人たちに見向きもされなくなってしまうのではないかという心配があるからです。

「こんなに一所懸命やって勝利もしたのに、どうして周囲からたいして評価されないんだろう?!」
全身全霊で戦って勝利を得た競技者がこんな思いをしたら!

それではあまりにも悲しいですよね。
僕なりに競技スポーツを愛したからこそ、僕は真剣な競技者にそうはなって欲しくないんです。

僕は若者のモノの考え方に精通しているわけでもなんでもないんですが、それでも多くの大人が今の若いヤツはなんでこうなんだろう、って不思議におもうことの理由がなんとなくわかるときがあります。
おそらくそれは、上に書いたような時代認識のおかげではないのかなあ、と思うんです。

どれだけ書き尽くせるかわかりませんが、これから少しづつこの10年あまり僕が考え続けて来たことを書いてみたいと思います。
興味のあるかたはおつきあいくださると嬉しいです。(^^)




posted by sotaro at 06:55| 埼玉 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 僕がこの10年考え続けている事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする