2011年06月30日

20世紀

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まずは20世紀がどんな時代だったのか、というお話です。

まあ、僕は学校でも歴史とかいつも赤点ぎりぎりでしたから、あんまり真に受けないでくださいね。(^^;;;

人類が100万年くらい前に誕生して、そこから99万年くらいは有史以前ということでほとんど変化のない暮らしをしていたんだろうと思います。そのあと、言語を獲得して文字を覚えて歴史がはじまってそこから劇的な変化がはじまるんですよね。

そして、ついに産業革命が起って、石炭の時代がちょっとあって、いよいよ石油と機械の文明がはじまるわけです。
ガソリンエンジンの自動車が発明されたのが1885年?オートバイもモーターボートも同じ年です。飛行機が1903年ですね。

今から百年前にはまだフツーの人は自動車も持ってないし、家には電気もなかったんですね。驚きです。だって日本には百年生きてるかたがたくさんいらっしゃるでしょ?その人たちが生まれたときと今とでは世界がとんでもなく変わっちゃってるんです。僕だってもう50年以上生きてますが、この間に人類が経験した変化というのは、ほんとうにもうめっちゃくちゃな変化(あえて進化とか進歩とは呼びません)なんですよね。あらためて考えてみると驚きます。

そしてその中でも日本が戦後に経験した高度成長という変化は世界の歴史のどこにもあり得ないような変化なわけです。
だからある意味、20世紀の後半日本に生まれた僕たち(これ読んでくれてる人は全員そうですよね?)は世界の歴史の中でもあり得ないほど特殊な時代を生きて来たんです。そして、これほどの変化は今後とも(たぶん数百年単位で)もう起らないようなものなんだろうとおもうんです。

そういう意味では今後のことを考えたりするとき、あまり僕らの経験をフツーのこと当然のこととして基準に採用するのは危険だと思うんです。あまりにも偏った経験なんですね、僕らの経験は。僕らの常識は世界の歴史の非常識なんです。人間がこんなふうに変化(進化?)するのを当然のことだと思って来たぼくらは異常なんです。でも、生まれてからずーっとそういう経験しかしてないから、どうしたって今の日本なんて停滞していてどうしようもないように思えちゃうのはしょうがないですよね。

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ひとつだけ例を挙げると上のグラフを見てください。歴史が始まっても世界の人口はほとんど増えていなかったんですねー。
中世にはほとんど生産とか経済って伸びてないんですよね。ルネッサンス以降少し人間が自然科学的になってきて、人口も増え始めます。

ところが産業革命以降にはめちゃくちゃに人口が増えたことがわかります。石油を掘って何億年かかかって地球にたまったエネルギーを使い放題に使ってそれを機械によって動力に変えて食料を増産することで、こんなにたくさんの人口を養えるようになったというわけです。

この世界人口、どこまでも増えて行くのかというとどうやら100億人あたりで止まりそうだと思われているみたいですね、今は。

なんでこんな歴史の話しなんか僕がしてるのか、自分でもワケわかんなくなりそうですが、えーっとそうか。とにかく20世紀が、人類の歴史の中で20世紀だけが、とんでもない変化の時代だったっていう話しなんです。

で、20世紀に人類が何をやったかっていうと、石油の取り合いで2回の世界大戦をやったんですね。その頃人々が何を思っていたかって言うと、
この新しい資源「石油」を誰より先にたくさん獲得して、それで鉄を溶かして兵器を造って相手をやっつければ、自分たちが一人勝ちできる可能性がある!っていうことだと思うんです。

今から見るとずいぶん乱暴な考えですよね。でも、結局みんなそう思ってたんですよ、本気で。あるいは相手がそうやって攻めてくるんだから、好むと好まざるとに関わらずこちらもがんばって競争するよりないっていうことですね。黒船を経験した日本人は骨身に滲みてそう思っていたんでしょう。
思えば日本もずいぶんがんばって、戦艦大和をつくってゼロ戦造って戦ってみたんですよね。戦争には負けたけど、くじけない日本人は今度は経済で競争を挑みました。

僕なんかも子供の頃はテレビ番組なんかで「悪の組織が世界征服を企んでいる」なんて言うと、いまよりはるかにリアリティーがあったんですよ。今、「世界征服」なんてギャグでしかないですよね。
外国に出かけるのもおっくうな今の若い人からみたら、世界なんて全然欲しくないですよね、たぶん。

それで、その戦争というのが人間がやる「競争」の究極のかたちだっていうことです。イメージが悪すぎますかね。
でも、20世紀、世界中が必死で競争したんです。
またすごく雑な言い方で怒られそうですが、競技スポーツっていうのは「代理戦争」というか、ルールがあって安全で健全な「戦争ごっこ」のようなものだっていうことなんです。サッカーとかアメリカンフットボールなんかだとすぐ想像できますよね。

ですから、20世紀のような「大競争の時代」には競技スポーツがもてはやされるのは当然だったんですね。勝てばすべてを得られる。そういうことを誰もがリアリティーを持って信じることができた。

オリンピックというのが世界中で大人気になったのも20世紀ですよね。それに類するワールドカップやら世界選手権なんていうのもたくさんできました。昭和39年(1964)の東京オリンピックでの国を挙げての熱狂なんていうのは今では考えられないほどのものでした。今また東京にオリンピックを呼ぼうって言っても、まあなんだかたいして盛り上がらないですよね。それにも理由があるんでしょうね。

ただ、その次の日本のビッグイベント「大阪万博」(1970)の時には既にすこし景色がかわってきます。万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったんです。その頃日本はまだ高度成長のただ中でしたが、あまりの急激な発展のために「公害」があちこちで発生して、東京の空はスモッグでグレーだし、川はどぶ川みたいだし、こりゃちょっと考えながらすすめないとまずいのかもしれないぞってことに既になってたんです。

この頃人類は初めて自分たちの力が自然とか地球環境に対して巨大になりすぎてきたことに気づいたんですね。それまで人類にとって自然はとても太刀打ちできない巨大な畏怖の対象で、地震や台風や火山の噴火は甚大な被害をだしたし、病気だってまだまだ怖かった。そういう人智を超えた自然に対して人類は無力で神に祈ることしかできないと思っていたんです。
自動車を発明したベンツだってまさか自分たちの造るクルマがあまりにも世界中に増えすぎて大気を汚してしまうことなんて、まったく想像することすらできなかっただろうと思います。

ところが、人口が爆発的に増えて、人類全体の影響力の方が自然や地球の大きさを上回るほどになってしまった。
このことが際限のない拡大を目指した「競争」の限界を僕らに感じさせるようになったんです。ただ、大多数の人々がそういう資源の有限感などをリアルに感じ始めるのはやはり21世紀になってから、のようです。

まあ、ほんとに雑な話しの運びで申し訳ないんですが、とにかく20世紀というのが人類史上まれに見る「大競争の時代」であって、その時代の中にあって「競争」のひとつのカタチとしての競技スポーツもたいへんな発展を遂げたんだっていうあたりをなんとなく感じていただけたら、と思うんですが、いかがでしょうか。

20世紀には、競技スポーツは人類のありかたとうまく呼応していて、人の在り方の表現としてもまたまことに適切であった。
だから、優れたスポーツ選手は格好よく見えたし、その人が莫大な富を得ても当然のように思えたのだろうと思います。

そしてもちろん21世紀はそれとはちがった時代になっていくという話しにつながっていくのは、ご想像の通りです。
それに伴って、競技の意味も変わって行かざるを得ない。
僕が水上スキーに熱中していた1970年代後半のようには、人々は単純に競技スポーツに夢中にはなれないっていうことです。

既に十分長過ぎて、ついてきてない方も多いと思いますが、だいじょぶですか?わはは(^o^)
この続きはまた明日(以降)ということで、よろしくお願い致します。m(__)m
posted by sotaro at 01:53| 埼玉 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 僕がこの10年考え続けている事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
文面拝見しまして、共感出来る事が沢山有りますね。
社長より10才下の人間ですが、自分らの子供の頃も
「高度経済成長期」の暗い部分(公害病)で、今も
苦しんでる友人など居ます。喘息などですね。

スポーツは「代理戦争」でしたし、「経済で列強大国に挑め」は
身に染みて感じてました。

また「高給取りの家庭」と、貧相な家庭との生活の経済格差も
痛感しました。例えばテレビ…我が家にカラーが入ったのは
小学校低学年の時でした。友達の家から比べて遅かったです。

パソコンのモニターを白黒設定にして、DVDでアニメを流し、
「お父さん達は、こんなテレビを観てたんだぞ」と子供に見せ
話しても、ピンと来ない様でして…。

まぁ彼らが産まれた頃には、当たり前の様に「パソコン」が有り
「インターネット」が有り、音の出るカッコイイオモチャが有り、
携帯電話が有り、携帯ゲーム機が有った訳で…。

カタチは違えぞ、自分らが「コレが未来の21世紀だ」と図鑑で
観ていた事への過渡期、それが20世紀後半だったと思います。
(流石に「銀色の服を着て、エアカーはまだ走って」ませんが…)


自分らの子供の頃は、あちこちに戦後色が未だに強く残っていて

大東亜大戦後の社会の暗部が、見え隠れをしてた時代でしたね。
故に当時の特撮番組は、「日本征服」や「世界征服」と云うテーマ色が
まだ強く残り、プラモデルなどでも大東亜戦争時代の船艦や戦車などが
沢山出ていた時代です。マンガ雑誌の巻頭特集でも「これが大和だ!」
みたいな特集(今では考えられませんよね?)ばかりで感化されまして。

自分はマンガマニア(本職?)ですので、若い世代と話す事が有るのですが
「戦争の道具のプラモデル?人殺しの道具じゃ無いですか?」と
云われた事は驚きでした。君らが買っている「ガンダム」だって、
リアルでは無いけど「戦争の道具でしょ?殺戮兵器でしょ?」と
話したけど「アニメですから、人は死んでいません!」ですもの。

想像力が欠落してるというか、娯楽番組の奥を深読みしていない
と云うか(モビルスーツに乗ってる人間の死は?その家族は?)、
巻き込まれて行く主人公達や、戦いに巻き込まれる人達、一般人。
歴史で習った「戦争」からだと、そこまでの想像力が無い様でして。

日本の暗い部分を、見て居ないからなのでしょうけどね?
それはそれで、幸せな事だと思いますけど…。

ジェネレーションギャップを感じた次第です。


>人々は単純に競技スポーツに夢中にはなれないっていうことです。
ですね。バイクブームの時に問題になった「ローリング族」なども
競争社会での「時代の徒花」だった様に思えます。

人は競いたがる習性を、元来持っているけど。
なるべくそれは避けて通りたいが、心情の様です。
でも闘争心が強いと、競いたくなる=競技と云う事になるでしょう。
たとえそれが「疑似競技」だったとしてもですね。
(平和的かも知れませんが、絵描きなんてのは「誰にも負けたく
無い、認めて欲しい」ってな願望の塊でして。
まぁ「競争社会」に
今も生きてる民族ですので…)

時代の流れに乗りつつ、誰よりも先に「新しい創造」を求め生きてる
感じですね。

自分のスタンスを確立し、社会に認知されないウチはそんな感じです。
Posted by R1-Z黒 at 2011年06月30日 08:35
R1-Z黒様、コメントありがとうございます。
いろいろとご賛同いただけるところもあったようで、よかったです。
とにかく世界の変化についていくのはたいへんですが、それもそのはず、世界がこんなにも激しく変化したことはいまだかつてなかったし、おそらく今後もないんでしょうね。
これからは少し落ち着いた時代になる、いやもうかなりそうなってる。それを僕たちは「停滞だ」考える必要は実はあまりなくて、そういう落ち着いた世界の中で、どう自分たちの価値観を見いだして行くかっていうことが凄く問われるようになるんじゃないかと思います。
今の日本をあまり、行き詰まっている、閉塞している、停滞している、、、
と感じる必要はないんじゃないか、、、、と。
Posted by iB井上 #329 at 2011年06月30日 16:51
記事もスゴイがコメントもスゴイ! 子供の頃の世界の人口は37億位だった、倍に増えてるんだからアッタカクもなる(なってない気もするが)。

Posted by ぼんずやま at 2011年06月30日 20:16
ぼんずやまさん、どうも!
ちゃかさないでくださいよ。(^^)
スゴイのは長さだけだ、なんて言わないでね。

でも、自分が人生を半分くらい生きてる間に世界の大きさが倍に増えちゃうって、やっぱりトンデモナイ変化ですよね?!(^o^)

Posted by iB井上(#329) at 2011年07月01日 05:54
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