
僕はなにかを真剣に話しあっていると、「井上さんの言うことは理想論だ」という反論に出会うことがあります。実は僕はそれを聞くと内心嬉しくなってしまいます。(^o^) なんでときおりそんなことが起るのでしょう。へんですよね。 そこで、僕がよく「理想論」と言われてしまうようなことについてちょっと書いてみたくなりました。主に時代認識といったことです。 (この話しに関連することはこのblogでは以前から書いて来ていますが、もう一度まとめてみたいと思います。)
若いころ僕は水上スキーという真剣な競技スポーツに没頭していました。(今もまだ少しやっています。)その後、ウェイクボードという横乗りスポーツに出会いました。このスポーツにも競技の側面もありますが、深くつきあってみると競技以外に非常に豊かな側面を持っていることに否応無く気づかされてしまいました。 僕の考えだと、競技スポーツというのは20世紀的なもの。横乗りのX-Sportsは21世紀的なもののように見えます。 オートバイの世界で言うと真剣なロードレースは20世紀的。ゆるーいVMXやイベントレースなどは実に21世紀的だ、ということになります。
なにをもってそのような区別をするのか、どうしてそのように言えるのか、そんなことをお話したいんです。そのためには20世紀がどんな世紀だったのかということを整理し、そして始まってやっと11年が経過した21世紀がどんな世紀になりそうなのかということを予測し、概観しなくてはなりません。 その過程で「競争の価値」というようなことを考えることになると思います。
なぜそんな大げさな話しをしてまでスポーツを分類したりする必要があるのかというと、それはつまりスポーツなどを単に競技として追求するだけでは、これからの時代に評価されないということになってしまう可能性があり、せっかく一所懸命に競技に献身してもあまり価値ある成果がなく、特に既に21世紀的感性を身につけて育っている若い人たちに見向きもされなくなってしまうのではないかという心配があるからです。
「こんなに一所懸命やって勝利もしたのに、どうして周囲からたいして評価されないんだろう?!」 全身全霊で戦って勝利を得た競技者がこんな思いをしたら!
それではあまりにも悲しいですよね。 僕なりに競技スポーツを愛したからこそ、僕は真剣な競技者にそうはなって欲しくないんです。
僕は若者のモノの考え方に精通しているわけでもなんでもないんですが、それでも多くの大人が今の若いヤツはなんでこうなんだろう、って不思議におもうことの理由がなんとなくわかるときがあります。 おそらくそれは、上に書いたような時代認識のおかげではないのかなあ、と思うんです。
どれだけ書き尽くせるかわかりませんが、これから少しづつこの10年あまり僕が考え続けて来たことを書いてみたいと思います。 興味のあるかたはおつきあいくださると嬉しいです。(^^)
|
posted by sotaro at 06:55| 埼玉 ☔|
Comment(2)
|
TrackBack(0)
|
僕がこの10年考え続けている事
|

|
俺らの学生の頃には「お前らは一生、競争をしなければならない」
なんて事を、云われましたので。
自分は若い頃に、写真(銀塩)やバイクへと没入してましたし
今もスペアエンジンを「自分の理想とする、低フリクション
そして高効率(過年すると、効率を考えちゃいますよね)を
目標に、様々な事を考えています。
理想論かも知れませんが、その時間が楽しいですね。
洗練された21世紀、しかし「闘争本能の牙を抜かれた」感じに
思う事が有ります。
そしてその心意気が歪んで「足の引っ張りあい」
と云う、低い志へと
社会全体がなってる事も、感じますね。
それが「日本の閉息感」を産み出していると思います。
無論凄い技術を開発し、邁進されている方々も沢山居ますけど
庶民レベルで「足の引っ張りあい」や、「他人との干渉を避ける」
事が、より一層この国の進化を妨げてると、感じますね。
「右なら右へ習い」の、主体性の薄い日本民族の習性ですので。
「出る杭は打たれる」は、20世紀から有りましたけど。
今の閉塞感を打破するのは、「モラルを持った出る杭」へと
なる事なのではないかな?と感じますね。
ここでは以前からこんなことを話題にしていたので、もうミミタコな部分もあるかもしれませんが、あらためてこのことを整理してみようと思っています。
おっしゃるように日本が深く行き詰まっているのは、日本が最先端をいっているからではないでしょうか。まだ誰も答えを知らない問題に突き当たっているんですね、世界で最初に。
だとすれば、世界で最初にその答えを曲がりなりにも日本が出す可能性も十分あることにはならないでしょうか。
僕はそう考えて新しい時代に向けて日本がまっさきに時代の壁を突き抜ける事をたのしみにしています。(^o^)
ただ、それがいま僕たちに想像できるような「進化」とはきっと違うカタチの社会の訪れになるような気がしていて、それを旧世紀から生きている僕たちが好きになれるのかどうか、というのはまた別の問題かもしれませんね。(^^;;;