2009年03月13日

大量消費とは何か。

すいません、突然なにかを思いついたような気がするので、書きます。
というのも書いてしまわないとアイディアが形にならないうちにどこかへ行ってしまうんです、最近。歳だな。(^^;;

現代は石油に支えられた科学文明の時代で、その特徴は大量生産・大量消費社会であることです。この間、ウィリアム・モリスの展覧会を見て以来ぼんやりとそのことを考え続けてきました。

キーワードは「量産効果」です。つまりものを一個だけ造るより、一度にたくさん造ると一個あたりの単価を安く造ることができる、ということです。

工場をやっているとこれはもう当然すぎることであって「一度にたくさん造ると単価が安くなる」というのは自明のことと考えられています。

ジグを造れば加工がし易くなるが、そのジグ代を消却するにはある程度の個数が必要。加工ツールについても同じ。削りだしの品物を鋳物にする場合の鋳型代、量産に適したコンピュータ制御の機械や量産設備の消却についても同様です。

こういう投資をすればするほど単価はどんどん安くなるんですが、その消却のためには同じものを大量につくって残さず売りさばいてしまわなくてはなりません。

でもこれって、なんだかんだ言っても完全に造る側の理屈ですよね。ものを買う人の都合ではなくて、造る側の都合です。
つまり産業革命以降の社会というのは民主主義の世の中と言っても、消費者である大衆は結局製造者である大企業に都合のいいライフスタイルを知らないうちに選択させられてしまっていたのではないんでしょうか。

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話はさらに横道ですが、僕は「学校」というのも結局そういう大量消費社会に都合のいい人間を大量生産する工場ではなかったのか、と疑っています。だから全員に同じ格好をさせて、同じような考え方を持ち、団体行動を上手にできるような子供にしむけるんだ!(自分の学校嫌いの理由も実はここにあったか!(^o^))

人と違うものではなく、人と同じものを欲しがるような、大量消費用の人格。
そういう人はまたあまりものを深く考えず人と同じことを平気でできて、量産工場での単純作業にも向いていたのかもしれない。うわー、自分で書いてて恐ろしい。
学校を発明した人はたいへんな策略家ですね。

ほんとうは昔の王室で行われたように、子息ひとりにその道の優れた専門家の家庭教師を大勢つけるような教育がほんとうの教育だったんではないのでしょうか。あるいは親が子供に知っていることを手取り足取り教えるようなこと。

たったひとりの教師が何十人も子供を一カ所に集めていっぺんに教育するなんて、まさに量産工場ではないですか。
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もちろん大量消費社会の功績はとてもすばらしいもので、良質な商品が世界に安くあまねく行き渡るために必要なことだったわけで、一概にその効果を否定するなどということは全然できません。アフリカの現状などを考えると、まだその波及が足りない部分もあってもっとそのような「文明社会」を世界の隅々まで届かせるような努力も必要なのか、とも思います。

でも、日本のような国(先進国と言っていいのでしょうか)においては、もうこれ以上の石油文明化(大量生産・大量消費化)はいらないのじゃないか、と思うんです。
日本ではほんとうに必要なものはいくらでもカンタンにラクチンに手に入る。それが過ぎるので先日書いた「価値の逆転」なんてことまで起こっている。

そう考えてくると、これからの日本は、巨大な市場である世界に向けては量産効果で優れた安いものを供給しつつ、その一方国内では世界に先駆けて文明の次の段階へ進んで行ったらどうなんでしょう。そのための実験を始めるべきではないのかなあ。
それがどんな世界か、もちろん僕にもまだ描けている訳ではありませんけれども。


工場を経営している僕がこんなことを書くのは、ある意味とても危険な(自分の存在意義を否定するような)ことのようにも思いますが、でもできることなら、僕はそういうことを超克したような工場をやってみたいな、と今夢見始めていることに気づいたんです。(そうだ、どこかへ消えてしまう前に僕が書き残したかったアイディアはこれです。)

ウィリアム・モリス的な(アーツ・アンド・クラフツ運動の理想を体現したような)ボーリング屋。わはは。
そんなことができないもんでしょうかね。

だって、ウチは量産もいまだに少しはやってるけれど、お客様のために一つ一つのエンジン部品を丁寧に仕上げることを一番に考えようとしているわけですからね。

これからのエコな社会を考えても、すごくいいことですよね。一つのものを大事につくって、長い間大事に使うって。
一度造ったオートバイを何世代にもわたって使い続けることができたら、、。
だって、もうこれ以上の性能はいらないんだから、そういうことだってできるはずですよね。
そのためにはスピードとかコーナリング性能はもういいから、環境性能や耐久性がもっとうんと優れたものが必要かもしれません。それに長い間大事にしたくなるようなまるで伝家の宝刀のような価値も必要でしょう。

耐久性のためにはプラトーホーニングやWPC&MOS2やメッキスリーブの開発をもっとがんばって、、、
環境性能のためにはかつて造られたバイクを水素化して、、、、、。(^o^)

すくなくとも方向としては間違ってはいないように思うんですけれども、、、、。
夢かなああ、、、夢だなあ。。

またまたわけのわからないことを書き散らしてしまいました。自分のための備忘録的な意味合いの強い文なので、スルーしてください。m(__)m



posted by sotaro at 12:04| 埼玉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
学校に関する考察。
今まで漠然としたわだかまりのようなものが、
井上さんの文章で「そうだったのか!」と腑に落ちました。

画一化された個性(すでに個性ではありませんが)を量産するためのシステムに、
井上さん同様、私もわだかまりを感じていたのかもしれません。

マスプロダクトをはじめ経済というものは何かと
「前進すること、成長すること」を大前提としていますが、
すべてのものがそうである必要はどこにもない。
十分なものは今のままでいいじゃないか、
必要以上のものを望む必要なんてないじゃないか。
ひとつのものを大切に使う。
それは命を大切にするという考えと通じんじゃないかと思うんですけどね。
間違ってるんでしょうか(笑)。

…なんか話がそれましが、井上さんのお話は
いつもおもしろいです。
Posted by ヤマシタ at 2009年03月18日 09:57
ヤマシタ様、コメントありがとうございます!
学校の件はちょっと激しい書き方をしすぎたかと思いますが、特に誰かが意図して企んだ、というよりは多くの子弟にある程度の教育を行き渡らせようという学校のシステムがたまたまそのような工業社会に適合しただけのことかもしれません。
ただ、学校にはどうも軍隊式の「右向け右」の運動会の練習のような部分をどうしても僕は感じていました。といっても僕自身はそんな学校に適合できなかったわけではなく、結構いい子だったと思います。そういうカンタンに教育されてしまう自分が嫌いです。わはは(^o^)
まさにヤマシタさんのように前進や成長などはもう必要ない、という進んだ感性の方はきっとだんだんに増えてきていて、おそらく文明の次の段階においては主流になっていくんではないか、と僕は思います。
あまり激烈な競争が好まれずVMXのようなユルいイベントに人気が集まる、全日本レースよりテイストのようなイベントレースに人気がある、ウェイクボードのようなアートに近いような横乗りスポーツに人気がある、というようなこともそれと無縁とは思えません。
勝った負けたという競技性よりも文化性を、数値で表せるような単純な性能よりももっと深い趣味性を、人はバイクにも求め始めるのではないでしょうか。
今の世界を読み解き、自分の仕事の方向性を考えるためにも、こういうものの捉え方が必要なんだろうと僕は感じています。偉そうなことを言うつもりはないんですが、切実な問題のように感じてついこの話題ばかり書いてしまいます。

私なんかの話をおもしろがっていただいて、ほんとうに嬉しいです。ありがとうございます。


Posted by IB井上 at 2009年03月18日 14:54
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